ダイナマイトどんどん

 健さんのあと、菅原文太も亡くなってしまった。(以下文太さん)

 文太さんはその名の示す通りゴツイ感じのする男前で、わたしが気になりだしたのは「まむしの兄弟」「仁義なき戦い」「トラック野郎シリーズ」のあとで、岡本喜八監督の「ダイナマイトどんどん」を吉祥寺の映画館で見たのが意識した最初だったと思う。

 

 

 中学生、いや小学生の高学年くらいか。

 宮下順子さんがヒロインで、なかなか刺激の強いシーンも有ったように記憶している。北大路欣也さんが仇敵役、というのが岡本映画の醍醐味のようでもある。

 いずれにしても、その後は大スクリーンでこの作品のように躍動する文太さんを見ることは無かったのだ。

 

 文太さんはわたしの生まれ育った町のすぐそばに今もある大泉撮影所へ、主演作の製作でよくやって来ていた。警備は今ほど厳重ではなかったので、コンクリート製の柵を乗り越えたり、車の陰に隠れて保安所を正面突破したりして撮影所に侵入を繰り返していた。

 今はもうオープンセットは無いようだが、当時はオープンセットが健在であり、車両の爆破シーンや銃撃シーンを何度も陰に隠れて目撃していたのだ。

 不思議だったのが、セットやスタジオと待機所や部屋を行き来する俳優・関係者とすれ違っても、誰もわたしを呼び止めたり注意することは無かったのだった。

 ディレクターズチェアに深々と腰かけた文太さんから「小僧、あぶねーから隅っこで見てろよ」とドスの利いた声で声をかけられた時のことは今でも忘れない。

 その頃、そのドスの利いた声の持ち主が文太さんだとは気づきもしなかったが。

 

 わたしは思うのですが、文太さんも健さんもお二人が活躍されていた頃の日本はまだまだほんとうに貧しくて、いわゆる健全な娯楽というと映画くらいしかなく、危険ドラッグなどと生易しいものではないクスリの類がいくらでも流通していた時代だった。お酒も酒税が高いから庶民には高嶺の花で、手っ取り早いのはクスリだったのかも知れない。わたしが意識を持った頃にはもちろんそんなものは無かったのだが、まだ残滓が少しだけ残っていた。東映は、その暗黒ともいえる日本の戦後を一手に引き受けていた。日活・東宝とは明らかに異なる路線であったのだ。

 それ以降もピンク映画出身の監督が一般の作品にも進出できるなど、まだまだチャンスがたくさん残されていた良い時代だったのかもしれない。

 

 日本が豊かになって、娯楽が様々になって、映画は廃れていった。これは業界のみならず様々な角度からすでに述べられてきているから多くは言うまい。

 いまは、「可能性に賭ける」という言葉や行為自体もほとんど見かけなくなってしまったし、本気でそのような事を語ったり行為に及ぼうものなら大概が嘲笑の対象とされる成熟の時代になってしまった。

 そこで諦めるのか、諦めさせられるのか、納得するのか、パターンは様々だが下りてしまったら終わりなのだろう。と思う。

 

 歩いてゆくおれに

 なにか奇妙な光栄が

 つきまといでもするというのか

 

 歩いていかなければ、歩き続けなければ、わからない。ってこと。

 

 ダイナマーイト! どん!!どん!!!

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