理由はどうあれ 基本的に無視 と言うのは違うと思う

 最後に欧州へ渡ったのは2002年で、この時はシャルル・ド・ゴールからパリ観光を避けてプロヴァンスへ。列車へ乗り込み、車中でワインを飲みつつ。

 

 RONINという映画でアルルやニースの街並みが具合よく描かれていたので、割合楽しみにしていったのだが、どこへ行っても日本人が多くて、考えることは皆似たり寄ったりなんだなと、残念な心持でアヴィニョンへ移動したりしていた。

 

 この頃から、どこへ行っても同じような街並みや景色にどこへ行っても感激するような事は無く、途中でトラブルに遭遇或いは肉体的精神的に苦労した覚えのある旅行くらいしかはっきりとは覚えていない。わたしが旅で求めているのは既成の観光地などではなく、そこへ住まう人々なのだとその頃は漠然と思っていた。

 

 ただ、国内でその後に転勤生活を繰り返していたりするうちにそれも違うじゃないかと思うようになった。

 

 

 結局フォリナーである旅行者は通り過ぎていくもので、その場所で何が起こっても「基本的に無視」がそのスタンスなのであって、ならば受入側であるホストの側も同じように事が済めば「基本的に忘れる」と言うのがそのスタンスなのだと思う。

 そう感じるようになってからは、なるべく同じ場所に留まって、出来るなら顔と声を聞き分け見分けられるくらいに人に酔いながらのんびりしていたいなと。それがわたしの旅行スタイルになっていった。

 

 元々東側諸国にあった地域を巡るのはこの4月下旬からの旅ゆきが初めて。

 行き当たりばったりのノープランでどうなることやら。

 

 最近の出来事を通して気になったのは、「基本的に無視」がそのスタンスの人らが、同じように最低限のコミュニケーションで事を済ます人々を批判できるのか?という事象

 また、自分たちが置かれている若しくは籍を置いている属性をさておき、余所を「危険だ」「感じが悪い」と安易に語ってしまうことの愚かさ。

 自分のことをさておき、棚上げと言うのは後々になって自分の行いを振り返ってみるとかなり滑稽で、天に唾するってこういう事なのだなと感じずにはいられない。

 そして「基本的に無視」も「棚上げ」もそれは仕事の種類ではない。

 個人の特性に他ならない。

 

 

 「自分ではどうにもならない」と考える人は「どうにかしよう」と前向きに考える人々からすると劣る。

 もうマイナスのオーラがそこいらじゅうから出てしまって、見る人が見ればすぐに見抜かれてしまう。

 そして「もうどうでもいい」ことに自分も周囲も慣れて、どうでもいい存在になっていく。

 理由はどうあれ、といったん考えることが必要だ。