幸か不幸か この世に生まれてきた

おれは 村を知り 道を知り

灰色の時を知った

明るくもなく 暗くもない

ふりつむ雪の宵のような光のなかで

おのれを断罪し 処刑することを知った

焔の中に炎を構成する

燃えない一本の糸があるように

おれはさまざまな心をあつめて

自ら終わろうとする本能のまわりで焚いた

世のありとあらゆる色彩と

みおぼえのある瞳がみんな

苦悩のいろに燃えあがったとき

おれは長い腕を垂れた

無明の時のしるしを額にながしながら

おれはあるきだす

歩いてゆくおれに

なにか奇妙な光栄が

つきまといでもするというのか
 

 

 ブログを三つほど削除しました。

 「或る光栄」はこれで四つ目です。

 数年やっていて、せめてログだけでも保存したほうがよいのかな?と自問自答したものもあったのですがやめました。

 ブログに書いていて自分で印象に残っている文はだいたい頭の中に残っていますから。

 ダメなものも良いものも。

ブログというものが日記と言うのなら、それを見ず知らずの人にさらけ出すのが突然に恥ずかしくなってしまい、愚かな行為だなぁと。

 頼まれもせず、呆れられ、贖いもせず。

 商売でもないのに。

 便箋にじわじわと染み込んでいくブルーブラックのインクのように黒く塗りつぶしてしまえ と。

 どうなるか分かりませんが。これから先、少しずつ書いていきたいと思います。

 

 谷川雁さんの「或る光栄」ですが、わたし自身、一度も解釈を書き起こしたことがないのでここに残します。

 

 はじめに五段目までの「知った」についてです。村、道、灰色の時、これは「知った風なこと」とまずは感じたいところです。つまり、なにも知り得ていない人や自分。

 「明るくもなく 暗くもない」。これは、もうどうでもいい、明るかろうが暗がりであろうがどうでもいい、いわば自暴自棄な心理状態を暗示している。しかも「ふりつむ雪の宵のような光」はっきりとしないぼんやりとした様、状況で。

 谷川さんは、知り得ていない状況と自暴自棄な心理状態、さらにはっきりとしないぼんやりとした背景において「己を断罪し処刑」する人や自分を知ったとしています。

 五段目までのわたしの解釈。人は、よく知りもしない浅はかな知識と、なかば自暴自棄で薄ぼんやりとしか分からない状況において身勝手に自己嫌悪に陥ったりする愚かな存在でしかないという諦観とニヒリズムを漂わせる。

 続いて、中盤はよくよく見ればあるかも知れないしひょっとしたら妄想や空想そして理想論でしかない「焔の中に炎を構成する燃えない一本の糸」があるかのように、「さまざまな心をあつめて」人が野生と異なる唯一の本能として「自ら終わろうとする」生死を決する場で焚いたのだった。

 そんなときに思い起こせば過去から今までに経験したことや巡り会った人たちすべてが苦しみに悶え悲しみにうちひしがれ涙枯れるを知り「世のありとあらゆる色彩とみおぼえのある瞳がみんな苦悩のいろに燃えあがったとき」観念したかのように「長い腕を垂れた」。「長い腕」とは五体が満足であることのメタファー。

 「無明のときのしるし」というありとあらゆる状況で迷い戸惑い無知がゆえに流れ出る汗を額から滴らせながら「おれはあるきだす」。

 そのように聡明さや智慧とはかけ離れたいわば愚鈍でしかない自分が愚直に迷いながらも「歩いてゆく」先々になにか誇れるような「光栄がつきまといでもするというのか」わからない。

 現世に生きる人にそれがわかるわけがない。

 だからこそ生きてゆける。

 漠然とし、なにもはっきりとしない状況であるからこそ、良い時も悪い時も先へ進んでゆく気になれるのだ。

 そうでなければ悲しすぎる。

 

 この詩のタイトルは「或る」「光栄」である。

 なにも持たずに生まれてきた。

 ただ拳ひとつを握りしめて。