やわらかい手

 柔らかいものに さわっていない。

 もう二年にはなるだろうか。

 でもたまにはふれたくもなるよ。本心から。

 

 この4月6日に歳をひとつ重ねるけれど、一年を通して大きな進化や変化があったかと冷静に真摯に問われると、確かな実感は無い。どこかで聞いたセリフだね。

 本当にその通りなので、お返しします。

 

 でも、周りからあれだけ支えられ祝福を受け「確かな実感がない」と言うのが返礼のスピーチではなく本心だとしたらかなり鈍感だわ、と思った。

 

 

 浮世の話しではなくて、お祭り事ではなくて、盲目的にではなくて、ふと冷静に自分を考えてみる。

 冷静になってみると、とても怖い。

 

 毎年の事だけれど、この季節は産みの苦しみに似ていつもいつもとても憂鬱な気持ちになる。

 

 長い長いと感じた一年を過ごして、いったい何があったのかと思うと、なんだか自分だけ笛を吹いて一人で踊っていたような気がして、こじつけのような自分の成果を虚しく振り返り、お前はなにも実行していないのと同様だと手紙の代わりに天からの声が届き、そして、ああやっぱり独り善がりだったのだな、と誰の目にも明らかな非情な現実を思うととてもやりきれない。

 

 それと同時に、また同じような事が繰り返されて行くのかと少し先の未来を想像してしまうと、「自分は間違っていたんじゃないか」「その通り、お前は間違っている」と心の底から湧いて自分へ向かう悪辣な感情が人生を侵していく。

 

 愛する者がいるというその事実は間違えてはいない。

 そのことによる辛さや悲しみもない。

 

 

 

 なにをするでもない。他の女の子と話したり仲良くしたりすること。

 それについて心を痛めているのは誰なのだろう。

 わたしも同じように心を痛めているかもしれない。

 相手方の心情など察することすらできない状況の中、

 分からないフリをして過ごすしかこちらは出来ない。

 

 

 代わるものがいない、かけがえないものからは、 

 

 確かな実感として なにもないのだから。

 

 うんざりするほど いつものことだから 

 

 慣れるのか もうやめてしまうのか どちらかだろう。